幼美つれづれ草 −第11回− 安心と信頼の違い


9月、スウェーデンからグニラ・ダールベリ先生を京都にお迎えして、保育についてお話をする機会がありました。ダールベリ先生は、各国で翻訳されている幼児教育・保育学の名著『保育の質を超えて』(2022年5月邦訳刊行)の著者のお一人です。

ダールベリ先生との会話のなかで、「スウェーデンの保育では、安心というより信頼を大切にしている」というお話があり、それ以来、安心と信頼はどう違うのだろうか、と考えはじめました。いくつもの問いを置き土産にして、ダールベリ先生はスウェーデンに帰っていかれました。

安心と信頼は何が違うのだろう。そう考えて、伊藤亜紗さんの『手の倫理』の一節「安心と信頼は違う」を読み返しました。そこには、親御さんがいつもGPSで居場所を把握している女子大学生のエピソードが出てきます。子どもの居場所がわかることは、親にとっては安心ですが、そこに信頼はあるのかどうか、ということが問われています。子どもの成長を思えば、子どもに多少のリスクが及ぶかもしれないが、信じて背中を押すということも必要です。そして、重要なのは、「信頼」と「安心」がときにぶつかり合うものであること、二つの言葉は似ているように思われるが、実は見方によっては相反するものであることに触れられています。

社会心理学が専門の山岸俊男さんの言葉を引いて、伊藤さんは次のように整理します。

安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。もしかしたら、一人で出かけた子供が行き先を間違えて迷子になるかもしれない。途中で気が変わって、渡した電車賃でジュースを買ってしまうかもしれない。そう分かっていてもなお、行っておいでと背中を押すことです。ポイントは、信頼に含まれる「にもかかわらず」という逆説でしょう。社会的不確実性がある「にもかかわらず」信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです。(伊藤、2020、 pp.93-94)

読み返しながら、これまで私を成長させてくれた方々の顔が脳裏に浮かびました。まだまだ未熟で実力不足の私が、失敗するかもしれない「にもかかわらず」、仕事を任せてくれた方々、大切な役目を経験させてくださった方々の顔です。

私自身はといえば、自分の子育ての中でのかかわりが、本人の安心のためというより、自分の安心のためにやったこともあったな、そのとき私は子どもを信頼していたとは言えないな、などに思い当たり、色々な思いが湧いてきました。

また、私は、教員養成大学に勤めていますが、学生に対しても、信頼を手渡しているだろうかと自問しました。きっとできないだろうと思い、相手を信じられず、先回りして何かをやってしまうことも多かったように思います。

言葉には私たちの哲学が潜んでいる、それが実践を規定しているのだということも、ダールベリ先生は言い残していかれました。保育について語るとき、どのようにすべきかという方法論に終始せず、私たちが当たり前に使っている言葉に目を止め、私たちが何を大切にしているのか、大切にしていきたいかを見つけ出していくことも必要な作業なのだと思いました。

読者のみなさんも、なんらかの形で、人が育つ場に居合わせている方が多いだろうと思います。安心と信頼の違いを考えることを通して、子どもたちに信頼を手渡しているか、子どもたちはどういうときに自分への信頼感、相手への信頼感を感じているか。そんな問いをもって、自らの実践を見つめ直してみたいと思います。

 

引用・参考文献

伊藤亜紗『手の倫理』講談社、2020年

山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』中公新書、1999年

プロフィール

佐川 早季子(さがわ さきこ)

京都教育大学教育学部 准教授。
全国幼年美術の会 常任委員。
一人目の子どもを生み育ててから、どうしても子どもに関わる研究がしたくなり、大学院に入り直し、幼児の造形表現について保育現場に通って研究し、今に至る。母親であり研究者であり大学教員。

著書に『他者との相互作用を通した幼児の造形表現プロセスの検討』(風間書房)、共訳書に『GIFTS FROM THE CHILDREN 子どもたちからの贈りもの−レッジョ・エミリアの哲学に基づく保育実践』(萌文書林)などがある。